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アメリカには5年の予定で渡りましたが、結果的に7年滞在しました。当時のアラスカ州では中学校は2年生まででしたので、14歳になっていた私は高校進学を目の前にして日本に帰国することになりました。戻った先は北海道ではなく、東京の練馬区、大泉学園。東京学芸大学附属中学の2年生に期中編入しました。

帰国後の居住地が練馬区大泉学園だったことは私にとって大きな意味を持っていました。練馬は『がきデカ』作者の山上たつひこさんや『宇宙戦艦ヤマト』の松本零士さん、『あしたのジョー』のちばてつやさんが長く住んだ漫画/アニメの聖地だったのです。そのせいもあってか、学校で仲良くなった子たちには漫画やアニメのファンが多かったのですが、アメリカ滞在中も例の船便のおかげで漫画には継続的に親しんでいましたから、話が合ってすんなりと仲間になることができました。当時は『機動戦士ガンダム』、いわゆる“ファーストガンダム”がテレビアニメとして人気を博し始めていて、周囲の友人にはアニメオタクが多かったですし、私も漫画からアニメへの傾倒が進んでいきました。漫画誌を探しに立ち寄った書店で、たまたまアニメ専門誌「アニメージュ」の創刊号を見つけ手に取ったのもこの頃で、この聖地・練馬への帰国をきっかけに、私のアニメ没入の歴史が始まっていきました。

大泉学園には東映アニメーション株式会社の製作スタジオがありました(今もあって、東映アニメーションミュージアムが併設されています)。古くは『ゲゲゲの鬼太郎』『タイガーマスク』『ひみつのアッコちゃん』などの名作を手掛け、私の帰国当時は『宇宙海賊 キャプテンハーロック』『銀河鉄道999』など地元在住の松本零士作品でヒットを連発中だった老舗スタジオです。私は東映アニメーションのファンクラブ会員になり、このスタジオに事あるごとに通っていました。スタジオでは新作アニメ作品を封切前に関係者間で確認するための試写会(いわゆるゼロ号試写)も行っていて、『銀河鉄道999』の試写を見ることができました。それがファンクラブ会員の特典だったのか、それとも関係者の子弟のふりをしてちゃっかり潜り込んでいたのかは記憶があいまいですが(笑)、そうした特別な体験もアニメの世界により深く入り込んでいく後押しになっていたと思います。

そんなこんなで、この頃の私は漫画よりアニメを好むようになっていました。静止画と文字で構成される漫画に対して、アニメは絵が動くことが最大の魅力でした。そこに音楽や声優の力が加わって、表現がより豊かになる点も大きなポイントでした。私は作品ごとのファンイベントに参加したり、そこでグッズや使用済みのセル画を買ったりしていたのですが、そうしたファンの巻き込み方、集まったファンの熱気、グッズを競うようにして買い求めるさまなどに触れ、子どもながらにビジネスとしての広がりに可能性を感じていたように思います。また当時は記録媒体としてレーザーディスクが出始めていた頃で、劇場で1回鑑賞して終わりの映画と違って、繰り返し見られる点は大きな進歩でした。好きなコンテンツをストリーミング再生でいつでも何度でも楽しめる今の時代からするとピンと来ない話だと思いますが、こうしたパッケージソフトの登場は、コンテンツユーザーにとってもコンテンツビジネス業界にとっても、エポックメイキングな出来事だったのです。

こうしてアニメにどっぷり浸かった状態で高校まで過ごした私は、大学進学に際して、あのガンダムシリーズの総監督・富野由悠季氏が日本大学芸術学部映画学科出身であることをアニメージュの記事で知ります。これでもう志望校は日芸一択。アニメ製作を学ぶべく、日芸映画学科監督コースに入学しました。同期は25人、うち女性は4人で、入試面接の際、試験官に「女の子は映画監督にはなれないよ」と言われたのをはっきり覚えています。これ、今だったらハラスメントもいいところですが、当時はそんな時代だったのです。この言葉にいきなり洗礼を浴びた格好ですが、「アニメならまあ可能性はあるね」とも言われました。もとよりそれが志望理由でしたから、特に問題はありません。こうして映画学科に入学し、アニメ監督になるというイメージを持って具体的にコンテンツビジネスという職業選択を初めて意識することになった、美千代18歳の春でした。