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意気揚々と日本大学芸術学部映画学科監督コースに入学した私。でも1年生の段階で早くも映画監督になるという志を改めざるを得なくなります。なぜって、同期たちに段違いの才能を見せつけられてしまったから。彼らはみな個性的で、自分の世界観を持っており、制作実習でもセンスあふれる作品を次々と作っていました。そのゼロから物語を生み出す能力、人の心を揺さぶる作品を創り上げる力は天与の才であって、努力して得られるものではないことに気づいてしまったのです。リスペクトすべき才能に間近で触れたことによって、私は自ら作品を生み出す側から、才能の持ち主が生み出す作品を世に広める側に回ろうと考えるようになりました。そして職業選択の志向も演出家からプロデューサーへと移っていったのです。イメージはみこしの担ぎ手。細部まで美しい造作を施した唯一無二のみこしを作る一流の職人にはなれなくとも、自分はその価値を理解することができるからこそ、みこしを担いで練り歩き、多くの観客を魅了してたくさんの投げ銭を集める役割を担うことができる。そんな風に考えたのです。

ただ、プロデューサー業のための学びという視点で振り返ると、当時の大学の授業には足りない点が数多くありました。映画をビジネスとして捉えれば、制作技法以外にも学ぶべきことはたくさんあります。著作物の保護育成の考え方、製作予算の調達と運用、マーケティング手法などなど。ですが、そうした内容の講義はさほど充実していませんでした。当時は教える側も制作志向で、プロデュースやプロダクションマネージメントの領域はあまり重視していなかったのかもしれませんね。その後コンテンツビジネスの世界に入ってから、こうした領域について学生時代に学ぶことができていたらどれほど良かったかと思ったことは一度や二度ではありません。今の私にはその重要性がよく分かりますから、2023年の春から日芸映画学科の客員教授をお引き受けしています。古巣に戻って映画ビジネス界を目指す学生たちを支援できるなんて、こんなにうれしいことはありません。

一流のプロの仕事を学んだ映画業界時代

卒業後、最初に就いた仕事は実写映画の制作助手でした。大学の担当教授から「フィルムリンク・インターナショナルの映画プロデューサー、山本又一朗氏がアメリカでの新作制作に際して英語話者の制作助手を探している」という情報をもらったのがきっかけです。卒業間近の私はプロデューサーという職種を広く捉え、広告会社の内定を得ていたのですが、教授の話を聞いてこの映画の説明会に参加しました。よく聞いてみればロケ地はアメリカではなくアフリカでしたし、しかもその先どうなるか分からない単発の請負仕事で、入学当初の映画監督になるという志とも直近のプロデューサー志向とも違った方向性でした。ですが、山本又一朗さんは当時映画プロデューサーとして脚光を浴びていた方でしたし、アフリカでの仕事も何かの話のタネくらいにはなるだろうという程度の、ある意味恐るべき決断力で広告会社の内定をあっさりと辞退し、参加することにしたのでした。

それから7カ月間、ケニアでのロケに参加しましたが、実際に話のタネに事欠かない日々を送りました。サバンナで運転していた車が横転大破し、同乗の現地コーディネーターと大平原に2人きり、日が落ちれば野生動物に囲まれてしまうところを運よく巡回の警察車両に救助され、しかもその日は23歳の誕生日でした。

仕事の面ではベテラン職人たちの下で雑用係として右往左往し、厳しい叱咤を受ける毎日でしたが、プロの仕事を間近に見ながら、その期待を上回り、先回りするにはどうしたらよいかを常に考え続け、全力で取り組み続ける動き方を学びました。

日本帰国後もフィルムリンク社にお世話になり、リドリー・スコット監督作品『ブラック・レイン』の制作現場に参加しました。役割はエグゼクティブ・プロデューサーであるスタンリー・R・ジャッフェ氏のアシスタント兼キャスティング・ディレクター補佐。ジャッフェ氏は私が大好きだった『がんばれ!ベアーズ』のプロデューサーでもあり、ご縁を感じたものです。そしてこの仕事ではまさに世界一流の映画制作現場を直に体験することができました。高倉健さんのような超大物俳優ですらオーディションにかけるアメリカ式のキャスティング方式や、オーディションで健さんに対面した主演のマイケル・ダグラスが、一目会うなり電流が走ったように立ち上がり、何かが通じ合った表情で握手を求める姿を目の前で見ることができたのは、今も私の大きな財産になっています。こうして20代の私の映画業界生活は、それこそドタバタ人情喜劇映画の一幕を地で行くかのごとく、てんやわんやのうちに明け暮れていったのでした。